ビジュアル・ナラティヴとしての「雨のみち」

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語りの共同生成

やまだようこ

 

 

当事者がもの語りを語ることの効用はたくさんあります。
もちろん、語りから教訓を引き出したり、教育や支援の方法へと実践にむすびつけることは大切でしょう。しかし、当事者でしか語れないナラティヴ(もの語り)そのものを味わい、今まで見過ごしてきた何かに気づくこと、それこそが語りのもつ素晴らしさであり、醍醐味のように想います。 

もの語りは、語る人にとっても、それを聞く人にとっても、気づきや感動や驚きをもたらします。人は数値や論理よりも、感動や共感によって動きます。教科書の概念よりも、生きた体験を「生きもの」として、「生のことば」で語られるもの語りの方がはるかに人の心にひびきます。

もの語りによる驚きや感動は、新しい発見にむすびつきます。ものを見る目が変わり、パースペクティヴが変わり、世界の見え方や意味も変わります。もの語りは、自分自身や他者の行為も生成的に変えていく力をもつでしょう。
 

もの語りは生成的な機能があります。なぜでしょうか。 


他の人の体験談を聴いていると、自分の似た体験を思い出して、部分的にもかさねあわせて語りたくなるからではないでしょうか。それは、他者の話が「他人ごと」ではなくなるということです。

他者の話を、他人のものとして聴いている限り、それは情報を得ているにすぎません。しかし、自分自身では直接体験したことがない話でも、それに触発されて、自分の文脈にひきつけて「私のもの語り」を語りたくなったときは、ちがいます。「他人ごと」ではなく、部分的にも「私ごと」になるからです。 


コミュニケーションとは、「共通のものをつくる営み」です。きわめて個人的な「私のもの語り」が、ほんの少しでも他者とかさなって「共通のもの」になり、相互主体的な「私たちのもの語り」に変容するのです。 


やまだようこ 2023 「語りが語りを生む共同生成」より 

大内雅登・山本登志哉・渡辺忠温(編)2023「自閉症を語りなおす:当事者・支援者・研究者の対話」137-149 


 

ポエティック・リアリズム-天地にひびく蛙の声のコスモロジー 


                                                    やまだようこ
                                「南マガジン 南博文先生退職記念誌」13-16. 2022
 
 南博文さんとは、アメリカから帰国された直後に出会ってすぐに共鳴し、日本質的心理学会設立を含めて多くの研究プロジェクトや本の出版などで共に活動してきました。たくさんの夢を語りあってきましたが、「もうすぐやってくる」とかなり具体的にイメージしつつ、「まだ」じゅうぶんには実現していないことのひとつを書こうと想います。それは、心理学における「ポエティツク・リアリズム」を明確にする仕事です。
 かつて雑誌『発達』(ミネルヴァ書房)で、南さんと「人生なかば-ふたつながら生きる」という往復書簡を1995年から2001年まで連載したことがありました。そのはじまりは、ミロの絵と草野心平さんの詩でした。そして、そのはじまりから「ポエティツク・リアリズム」ということばが飛び交いました。
  少し長いのですが、南さんの初回の書簡をまるごと引用させてください。南さんのみずみずしい感性、いきいきと手ざわりのあることば、そして思い描かれていた新しい学問の方向性がよくわかり、今読んでも新鮮で、わくわくするのではないでしょうか。
 
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<やまだようこさんへ>
お送りしたミロの「ブルーⅡ」気に入っていただけて嬉しいです。ミロの作品に流れる詩情と、ちょっとおどけたユーモアが私は大好きです。四年くらい前にある展示会で、青と赤の二つの丸が重なり合うだけの単純な図柄のミロのリトグラフ作品に出会ったことがあります。そのとき私は、これは私が求めていた心理学を象徴的に表わす作品だと直観的に感じました。そして手元に置いて毎日この絵をながめられたらなと思いました。その願いはかないませんでしたが、今だにこの二つの交わる青と赤の円というイメージは頭の中にはっきりと焼きついています。
 やまださんの「人生なかば」の中に出てくるライフサイクルのイメージ、そして「ふたつながら生きる」という文言を、またあのミロの絵と重ねて考えてしまいます。たしかに私たちの体験の中でももっとも深いもの、味わいのあるものは、「比喩でしか語れないもの」なのかもしれません。実はこのあいだお話したように「ブルーⅡ」には、次のような草野心平さんの詩を添えてお送りするつもりでした。
 
 序詩 草野心平
 自然と人間のなかにはいると。
 そのまんなかにはいってゆくと。
 かなしい湖が一つあります。
 その湖がおのづから沸き。
 怒りやよろこびに波うつとき。
 かなしみうづき爆破するとき。
 わたくしに詩は生まれます。
 日本の流れのなかにゐて。
 自然と人間の大渾沌のまんなかから。
 わたくしは世界の歴史を見ます。
 湖の底に停車場があり。
 わたくしは地下鐵にのって方方にゆき。
 また湖の底にかへってきます。
 なきながら歌いながら。
 また歌いながらなきながら。
 つきない時間のなかにゐます。
 (草野心平『大白道』)
 
なぜこの詩に魅かれるのかは、自分でもよくは分かりません。それはミロの作品にしても同じです。でも、この詩の中に、私が追っかけている事、なんとかして手ざわりをもってつかまえたいと願っている生のリアリティが横たわっているということだけは、確かに感じ取れるのです。
 
 「ポエティック・リアリズム」
 やまださんの「人生なかば」を通して流れている主題というか、もっと言うと語りのトーンといったものが、今までの心理学の書きものとは随分ちがうことは、読まれた方は誰でも感じられる事だと思います。そして、それはただ単に表現の様式――スタイル――の選択というレベルの問題ではなくて、おそらく今やまださんが何とか言葉に置きかえようとされているリアリティの相の特質とかかわる、本質的な問題なのだと思います。丁度あのミロの絵の主題といったものが、あの独特の表現スタイルと切り離しては有りえないように。
 ここで私が思い出すのは、ポエティック・リアリズムという言葉です。既に自分自身でも出所が定かでない言葉なのです(あるいは私自身の造語かもしれません)が、B・カプランという『シンボルの形成』をウェルナーと共著で書いたクラーク大学の恩師のセミナーで、K・バークなどの文芸評論家の著書をしこたま読まされたときに、どこかで出くわした概念だったと思います。ギリシア哲学の伝統の中では、ポイエシス(poiesis)とはリアリティーそのものを創造する神聖な原理なのだと教えます。そして詩人とは、言葉の実験を通して新しいリアリティの相貌を我々の前に提示し、ある意味では「世界を創造」する者であると。この辺になると難しい詩論の領域に入っていきますが、私自身は詩的な感性によって直観的につかみとられた、あるいは半ば創造されたリアリティというものがある、と素朴に納得しています。そして、いわゆる「科学的」とされるような人間現象へのアプローチ法とは違った「もうひとつ別の心理学」を構想するにあたって、ポエティック・リアリズムという言葉が手がかりの一つになると信じています。
 例えば、やまださんの好きな荘子の中に出てくる豊かな比喩やたとえ話やイメージを誘う語句などは、私の中ではポエティック・リアリズムの範疇に入ります。むしろ、そのみごとな体現だとさえ思います。まだ我々自身が、またおそらく創作者自身でさえも充分にその含意をくみとっていない生のリアリティについての直観的な理解を、比喩やイメージや言葉などの詩的表現によって先取り的に形の中に封じ込めておく。あらゆるシンボル形式にはこのような「理解を先取り的に形の中に付与しておく」はたらきがあるということを、カプラン先生のセミナーから教わりました。そして、理論と言われるものもそのようにシンボル形成の一つであると考えると、理論に対してもっと自由な態度がとれます。
 やまださんが「人生なかば」の中で時々の印象的な出来事や想い出の連想の糸をたぐりよせながら、あるいは立ち止まり、あるいはぐるぐると一つのモチーフのまわりを廻り歩いてたどり着こうとされている目的地は、広い意味での人生についての理論なのかなと思っています。やまださんの言葉を借りればモデルということなのでしょうか。ここでのモデルは、もちろん機械論的なそれではなくて、「詩は世界のモデルである」といった意味でのモデルですよね。
 以前に『サイコロジートゥデイ』というアメリカの一般向けの心理学雑誌に、老齢のエリクソン夫妻へのインタヴューの記事が載っていました。その中でエリック・エリクソンが織物芸術家でもある妻のジョーンさんの手になる織物を掲げているスナップ写真が載っていました。そしてエリクソンのあの有名な漸成的発達分化の図式は、ちょうどこの織物のようなものを表現している、という談話もありました。これを読んだとき、エリクソンの理論について今までとは違った新鮮な目が開かれたように感じたのを覚えています。
 「そうか、理論ってそんな風なものなんだ」と、ずい分気持ちが楽になった気がしました。もちろんエリクソンにとってあの図式は、織物からインスピレーションを得た思いつきといったものではなく、彼の受け継ぐフロイトの精神分析の理論を下敷にした長年の思考の賜物なのに違いありません。しかし、私には生理学者から出発した師のフロイトの気質とは違った、いかにも青年画家をかつて志したエリクソンらしいモデル化への志向性があるように思えます。先の妻の織物を大切にしまっている老エリクソンのエピソードは、象徴的でさえあります。
 エリクソンが晩年に書いた『老年期』の中で、なぜバークレー縦断研究の膨大なデータファイルを自由に使える立場にありながら、あえてベルイマンの映画『野いちご』に登場するイサク・ボールイという架空の人物の「生活歴」を分析してみせたのか。ここにも創作された世界の持つ、ある意味で純化されたリアリティへの敬意を私白身は感じます。そして、それは画家として青年期を送ったエリクソンの感受性に由来するように思います。
 一昨年広島大学の大学院でやまださんに集中講義をしていただいたときにも、『野いちご』と小津安二郎の『東京物語』を学生さんたちといっしょに見せてもらいました。この二つの作品からどう人生の物語を読みとっていくか。そしてそれぞれ西欧と日本の文化を深く追求した二人の芸術家が、老年期にある人間と壮年期にある人間、あるいは青年期にある人間との間に織りなされる関係の網目をどのように描いたか。それぞれの作品の中に流れる時間軸の構造。これら様々な観点から作品の分析を提示して下さいました。
 映画をある意味でデータとして取り扱うという斬新な手法は衝激的でさえありました。そんな事は「実証性」を重んじる心理学の中で可能なのか? 可能だとしたらそれはどのように可能なのか? この点については、昨年の学会でも佐々木正人さんとの間に熱いディベートがありました。それは根本的には、「何が心理学にとってのリアリティなのか?」という問いをめぐる議論だったと思います。
 「人の生」という現象にダイレクトに向き合おうとする姿勢において、私はやまださんと意を同じくする者です。冒頭に掲げた草野心平さんの詩は、その意味で私にとってはまさしくこれからの実験的な試みへの「序詞」だと思っています。人の生活の匂いのする現場の臨場感のある心理学へ。しかし、具体的な事実の錯綜の中に埋もれこんでしまわない、透徹した理論のパースペクティブを同時に切り拓くこと。それはまだまだ遠い目的地なのですが、例えば草野心平さんの詩を読んでいるとき、あるいはミロの絵にうっとりと見入っているとき、私はまだその目的地の様子を知らないはずなのにもかかわらず、
 
 きっといつかこの風景を、どこかで
 目にすることになるんだろうなとふ
 と思った。それはいわば既視感の逆
 だった。いつか自分はこれと同じ風
 景を見たと思うのではなくて、いつ
 か自分はこれと同じ光景にどこかで
 めぐり会うだろうという予感がある
 のだ。
 (村上春樹『国境の南太陽の西』講談社)
 
 南博文 1995「人生なかば-ふたつながら生きる」『発達 63号』ミネルヴァ書房
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  草野心平さんは、蛙の詩を多く書きました。それは地底から響く、名もない人々の声でもあり、そして、地べたに根ざした生きものたちが「居場所」「原風景」で交歓する「地霊(ゲニウス・ロキ)」の声でもあります。地にひびく「生(なま)の生きた声」を学としてすくいとろうというこころざしは、天の高みをあおいで紡ぎ出す。天地をむすぶコスモロジーでもあります。
 
闇のなかに。
ガラスの高い塔がたち。
螺旋ガラスの塔がたち。
その気もとほくなる尖塔に。
蛙がひとり。
片脚でたち。
宇宙のむかうを眺めてゐる。
 (草野心平「さやうなら一万年」部分 『草野心平全集 第二巻』)
 
そして、また、蛙の声は、生と死をむすぶコスモロジーでもあります。
 
死に近き母に添寝(そひね)のしんしんと遠田(とおた)のかはず天(てん)に聞(きこ)ゆる
 (斎藤茂吉 『赤光』)
 
そして、また、蛙の声は、乾いた西欧文化と異なって、湿潤な風土をもつ日本文化のなかで日本語に根ざしながら世界へ開いていこうとするコスモロジーでもあります。
 
天が地を蓋(おお)ひ‚
そして‚地には偶々(たまたま)池がある。
その池で今夜一と夜さ蛙は鳴く・・・
――あれは‚何を鳴いてるのであらう?
 
その声は‚空より来り‚
空へと去るのであらう?
天は地を蓋ひ‚
そして蛙声(あせい)は水面に走る。
 
よし此の地方(くに)が湿潤に過ぎるとしても‚
疲れたる我等が心のためには‚
柱は猶‚余りに乾いたものと感(おも)はれ‚
 
頭は重く‚肩は凝るのだ。
さて‚それなのに夜が来れば蛙は鳴き‚
その声は水面に走って暗雲に迫る。
 (中原中也 「蛙声(あせい)」『在りし日の歌』)
 
  最近では、農薬と都市化と生態系の変化のせいか、蛙の声があまり聞こえなくなりました。しかし、暗雲のなか危機に瀕した蛙の声は、未来に残したい水辺の生きものの声でもあります。
  草野心平さんは、「わが賢治」と題した評論のなかで、宮沢賢治の詩から「雲」の描写だけを189個もとりだしてアトランダムに並べ、それらのことばの新鮮さを比較して味わってみるという、共に詩人であるからこそ可能な興味深い実験的な試みをしています。そして次のように詩人の仕事について論じています。
 
  言うまでもなくこれら「音楽」といい「絵画」といい、それらが別々に彼を訪問するのでは勿論ない。それは常に同時にくる。同時に彼の感応板に感電する。そこにはウムはないのである。そのウムのない手っとり早さが応々彼の詩を難解なものにさせたりするのである。
  表現の的確さ――これがなくては詩人ではない。しかしその的確さを追及するときに応々従来の言葉では表現しきれない更に的確な言葉の追及にまで這入って行かなければならないことがある。どんづまりまで追いこまれる。そのどんづまりで言葉と共に立上がるのである。
  古来詩人の名誉の一つは対象にいのちを与える最後の言葉を最初に発見することであろう。その発見への愛敬と反逆とが清冽で熱い詩の歴史をつくるとも言えよう。しかしそのことは感性の自然発生のみの成し得ることでもなく、意識圏内の問題だけでもない。それは感性と叡智との共同作業によってのみ成し遂げられる。
(草野心平「わが賢治」 『草野心平全集 第二巻』109頁)
 
  ここで述べられている「最初に発見する」「的確さを追及する」「感性と叡智の共同作業」、それは詩人だけの仕事ではないでしょう。真実を追及する仕方や表現の形態は違いますが、心理学者にもあてはまるでしょう。

 現場(フィールド)のなかで、そこに生きる人びとや起こっている出来事と、身体をもってまるごと身(む)交きあい、ふるえる詩的感性によって感じたことを大切にすること。そして、それら詩的感性を心理学の歴史をつくる仕事に生かしていくこと。概念化して干からびた既成のことばではなく、生き生きしたことば、手ざわりのあることば、イメージを飛躍させることば、などを大切にしながら、それらを確かな学のことば、知のことばへとむすびつけていく仕事が必要なのです。

  今いちど、蛙の声を地と天のあいだにひびかせて、「ポエティック・リアリズム」の理論と方法論をクリアーなかたちにしていきたいと、私もこころざしを新たにしました。

「人の生活の匂いのする現場の臨場感のある心理学へ。しかし、具体的な事実の錯綜の中に埋もれこんでしまわない、透徹した理論のパースペクティブを同時に切り拓くこと(南博文)」 

日本文化と母

-江藤淳「成熟と喪失”母の崩壊“」を読み直す

 やまだようこ

やまだようこ2022 HP掲載
やまだようこ2023 『私をつつむ母なるもの-多文化の「人と人の関係」イメージ』
(やまだようこ著作集第6巻)新曜社 345-359
 
江藤淳(1967)は、『成熟と喪失-“母の崩壊“』という記念碑的な文化評論を書いた。この本は、河合隼雄(1976)の『母性社会日本の病理』などと共に、日本文化における大人になれない子どもの「成熟」論と子どもの自立を阻む「母」をむすびつける論調で語られていた。これらの議論の背景には、戦後日本の高度成長期に急速に変化しつつあった「日本文化」への危機や警鐘があった。しかし、それらの議論は十分に検証されることもなく、今も大きな影響をもちつづけているように思われる。
最近になって、この本は若い世代にも読まれるようになった。たとえば2021年の『すばるクリティーク』の最終選考に残った5本中3本が江藤淳を参照しているという。「江藤をリアルタイムで知らない20代、30代が江藤淳を取り上げている。なぜいま江藤なのか、不思議なんです」と問うインタビュアーに対して、受章者の西村(2021)は、「私は『成熟と喪失』を全部自分の話だなと思って読みました」と答えている。
また、杉田(2021)のように「あらためて、手持ちの文芸批評やサブカル批評やメンズリブや社会学や政治評論などの知見を総動員して、『成熟と喪失』に対峙しなければならない」と考える批評家もいる。
一つの評論が50年以上の歳月を経て読みつづけられることは、ほんとうに素晴らしいことである。しかし、気になるのは、元のテクストがきちんと検証されないまま、何度も同じようなフレーズが繰り返し新しい装いで蘇って流行してしまわないかということである。地道な議論が積み重ねられ継続してこそ、「成熟」というものであろう。
そこで、改めて、元のテクストに戻って、ていねいに読み直してみたいと思う。
 
■エリクソンのカウボーイの歌と母を棄てた子
 
江藤の評論が文明批評として傑出していたのは、「母」を通じて、戦後日本社会の急速な近代化、自然破壊とアメリカ化の問題をとりあげたからである。このアメリカ化は、明治以来のヨーロッパを手本にした西欧化とはまた少し異なる様相をもつ。ヨーロッパには、伝統文化が根づいた「ふるさと」があったが、アメリカはふるさとを捨てて移民した人々が、新しい文化をつくってきた国だからである。
江藤が対比させて繰り返し引用したのは、エリクソン(1950/1980)の『幼児期と社会』の「ゆっくり行け」というカウボーイの歌と、安岡章太郎の『海邊の光景』の母が歌う「をさなくて罪をしらず」という歌である。
 
ゆっくり行け、母なし仔牛よ、せわしなく歩きまわるなよ、うろうろするのはやめてくれ、草なら足元にどっさりある。だからゆっくりやってくれ、それにお前の旅路は、永遠に続くわけではないぞ。ゆっくり行け、母なし仔牛よ、ゆっくり行け
(エリクソン『幼児期と社会2』カウボーイの歌 江藤9頁)
 
をさなくて罪をしらず、むずかりては手にゆられし、むかし忘れしか、春は軒の雨、秋は庭の露、母は泪かわくまもなく、祈るとしらずや
(安岡『海邊の光景』母の歌 江藤9-10頁)
 
江藤は、二つの歌は対極的で、アメリカの母子の疎遠と日本の母子の密着には、本質的な文化の相違がうかがえるという。
アメリカの子どもは、母親に拒否され、早くから成熟し、遠いフロンティアで誰にも頼れない生活をするように育てられる。彼は、自分の率いる「母なし仔」に対しては一個の「母」であり、それ故に子守歌を歌ってきかせる。日本の子どもは、母親と密着して育ち、母親は息子が自分とはちがった存在になって行くことに耐えられず、幼かったときをなつかしみ愚痴っぽく圧しつけがましい歌をうたう。
江藤によれば、カウボーイこそは、母から独立してフロンティアに生きる男の理想の姿であり、日本の息子は母の呪詛にからめとられて成熟できないのだという。
このようにアメリカ人に比して日本人は個人として独立できず未成熟である。その原因は子どもを成熟させない母子密着にあるという論は、江藤のほかにも多くの論者によって語られてきた。そして、今も同じような論調で語られつづけている。
しかし、エリクソンは、どのような文脈で、あのカウボーイの歌を引用したのか、よく吟味する必要はないだろうか。エリクソンは、「アメリカのアイデンティティ」を考察する章で、あのインディアンの歌を引用しているのだが、その前には「かあさん(MOM)」についての考察がある。
エリクソンは、ある種の危険な型の母親(明らかに人の子の親として、いくつかの致命的な矛盾をかかえていることで特徴づけられる型)に、「かあさん」という名前を与えるのは、報復的な不当行為であると言う。そう言いながら、「かあさん」像の記述には、まったく容赦がない。彼は「かあさん」の7つの特徴を記したあとで、次のようにまとめている。
 
これだけ述べれば、「かあさん」とはどんな女であるかを示すには十分であろう。「かあさん」の人生周期には、幼児期の残滓が老齢と結びついていて、中間の成熟した女性としての時代が息づく余地がない。その結果、女であることの関心が自分のことのみに熱中し、沈滞する。事実彼女は女であり同時に母親である存在としての自分の感情に疑念をもっている。また彼女の心配過多の傾向ですら、それは彼女に信頼をもたらすものではなく、かえって永続する不信につながっている。しかし次のことは言えるであろう。この「かあさん」は、-(略)-誰も幸福ではない。彼女は自分に嫌悪感を抱いており、自分の人生が無駄ではなかったかという不安に悩まされている。子どもたちは母の日にはいろいろな贈りものをしてくれるが、彼らが心から自分を愛しているのではないことを彼女は知っている。「かあさん」はまさに犠牲者であって、勝利者ではないのである。(エリクソン『幼児期と社会2』25頁)
 
この「かあさん」の記述には、エリクソン自身の母カーラに対する「報復」がこめられているのではないだろうか。のちにエリクソンは、フェミニストの激しい批判にあった。彼の弟子であったキャロル・ギリガンは、1982年に「もう一つの声」という記念碑的な本を書いた。実の娘であるスー・エリクソンも、彼の死後に父を告発する文章を書いている。
ここでは、エリクソンと「母」との関係にしぼって考えてみよう。彼は、デンマーク人である未婚の母から生まれたが、その最愛の母がユダヤ系のドイツ人と結婚したとき、母に捨てられたと感じた。彼は、ドイツで育ったが、母は養父を「本当の父」と言い続け、何度聞いても本当の父について語らない母の嘘に不信感をもちながら育った。彼が描くライフサイクル図式において、いちばん根底の乳幼児期におかれているのは、「信頼」対「不信」の対立である。
エリクソンは、母を捨ててアメリカに渡り、義父の名字ホンブルガーもHだけの記号にして捨て、エリクソンという名字を名乗り、自分で自分の親になった。エリクソンとは、エリクの息子という意味である(フリードマン.1999/2003)。
エリクソンは、親から捨てられ、親を捨て、「母」「母国」という信頼できる依りどころをもたず、早くから自分で自分の親になって厳しい競争社会であるフロンティアに旅立たねばならなかった。彼が自ら書いているように「自力でつくりあげた自我という観念」を持たねばならなかったのである。それは、彼だけではなく、母国を捨てて移民としてアメリカへ渡った20世紀前半の多くのアメリカ人に共有されていたメンタリティだったであろう。
エリクソンは、「すべての根底に、確信に近い、致命的な自責の念がある」という。それは、「独立しようとあまりに焦ったために、母親を捨てた子どもだったという自責」である。「母なし仔牛よ、ゆっくり行け」というカウボーイの歌は、江藤が引用したあとの部分では、次のように続いている。
 
お前には父親もいない、母親もいない
お前がはじめて一人でさまよい出たとき、
お前が彼らを見捨ててきたんだよ、
お前には妹もいない、弟もいない、
まるでカウボーイと同じだよ、
家から遠く離れてしまって。 (エリクソン『幼児期と社会2』44頁)
 
このような「見捨てる」母子関係が、日本社会の母子関係の対極にある「自立」や「成熟」の理想像として描かれてきたことに、もっと疑問をもってもよいのではないだろうか?そこには、第二次大戦後の日本の深いアメリカ・コンプレックスが含まれているのではないだろうか。

 
■「恥ずかしい父」と「自然を自己破壊する母」

さて、江藤の論では、「息子に密着する母」は、「恥ずかしい父」とセットになっていた。息子は「恥ずかしい父のようにならない」ことを期待されて育てられる。「父」は、アメリカに比して、恥ずべき日本の象徴でもあろう。かつて鶴見俊輔は、木下順二の「聴耳頭巾」に寄せて次のように書いた。
 
いや、この頭巾は、死んだおとっァまのゆづりもんだが、こういう面白いことがあるとは、おら、きょうのきょうまで知らなんだ。いや、おとっァまも、きっと知らなんだに違いねぇ。
ぼくたちも、こういえるときがくるならば、と思う。古びた頭巾のほかに何も持っていないのだが、この頭巾がぼくたちにはみじめなものと見え、ひけめに感じられるばかりで、これの使い方がわからない。
ぼくたちの身についている唯一のものであるこれについて、いつかは、新しい方向においてこれを使う工夫がたつようになるだろうか。・・・・
(鶴見俊輔1967『限界芸術論』 木下順二「聴耳頭巾」によせて)
 
息子は、「父」に誇りをもつことができず、伝統的な社会のように「父」の仕事を継承することは望まない。誰にも「教育」によって「出世」する道が開かれたが、息子の出世は「ふるさと」や「母」が棄てられることも意味する。木下恵介(1950)は映画『日本の悲劇』をつくり、戦後の厳しい時代に身体をはって苦労して女手ひとつで苦労して育てた子どもたちから、うっとおしがられて棄てられる母親を描いた。川本三郎(1992)は「私が棄てた母親」において、この映画を次のように評した。
 
私たちは「日本の悲劇」の問題は、実は、戦後日本社会の普遍的な、そして、宿命的な問題だったことに気づく。親が苦労して子どもを育てる。成長した子どもは親をうっとおしく思い始める。そして自分の自立のため、幸福のため、いやおうなく、親を棄てていく。新しい時代を生きるために、古い時代を生きる親を切り棄ててしまう。親の側にそくしていえば、混乱の時代を必死に生きてきた親ほど、次の時代とのスレが大きくなり、子どもの離反にあっていく。
 
「日本の悲劇」で描かれた家庭内の離反という物語は、実は、そのまま、戦後日本社会の切り捨てのドラマにも対応している。いうまでもなく。戦後の日本は、高度成長の過程で、前近代的な産業を次々に切り捨てることで成長し、豊かになっていった。あるときは、農業を捨てた。石炭産業を捨てた。農村を捨てた。若年労働者は故郷を捨て、大都市に職を求めるしかなかった。いたるところで、切り捨てが行われた。戦後の日本社会は、そうやって急速に、古いもの、前近代的なもの、時代に対応できないものを切り棄てていった。
(川本三郎 1992 「私が棄てた母親」 337-338)
 
母は息子が立派に出世するほど、自分は「置き去りにされる」というジレンマに陥る。映画「日本の悲劇」の母親は、「お母さんが、こんなに苦労して育てたのに、お前はお母さんを捨てるのか」と愚痴を言って泣く。そして『海邊の光景』の母は、子どもが幼かったころをなつかしむ恨みがましい子守歌をうたいつづけるのである。 
息子のほうは、母を棄てたことを負い目に感じ自責の念をもつことになった。彼は、苦労して育ててくれた母のために都会でがんばって仕事をして、日本の高度成長を支えた。山村(1971/1978)が描く「動機としての母」になったのである。
もう一方で、息子は結婚しても、放蕩する自分を許し抱擁しつづける母の姿を「妻」に求めた。江藤によって『海邊の光景』の母と対比されたのは、小島信夫の『抱擁家族』の妻(母)である。
この小説の妻(母)は、アメリカ人のジヨ-ジを家にいれて人工的な快楽のなかで「娼婦」に変貌する。彼女は、家を混乱と破壊に導くだけではなく、家にとどまることも望まず、自ら家から「出発」しようとする。江藤は、次のように書いている。
 
敗戦の屈辱感が農耕社会の「貧し」さを恥じる気持と重ね合わされていることは注目にあたいする。近代産業社会の産物であるアメリカン・スクールは「畠をつぶした」ところに建てられているのである。ここにすでに「人工」を「自然」の上におく価値観の芽生えが見られることはいうまでもない。「自然」は恥じるべきものであり、そのなかにいたからこそ日本人は「置き去りにあされ」たのである。この「置き去りにされ」た不安と恥辱感の裏側にひそんでいるのは、もちろん「出発したい」欲求である。・・・(略)
女性的な農耕社会全体をまきこんだこの「出発」が、現実の女性にもつとも大きな影響を及ぼしたのも当然である。もし女であり、「母」であるが故に、「置き去りにされる」なら、自己のなかの「自然」=「母」は自らの手で破壊されねばならない。・・・(略)

あの「母なし仔牛」を率いて大草原を行くカウボーイにおいてすら、「母」は拒むものであっても、自らを破壊するものではあり得ない。まして「母」が彼を拒否するのは、彼をフロンティアの「自然」に出逢わせるためだからである。(江藤 113-114頁 頁は文庫版)
 
妻(母)の母性破壊の欲求と肉体崩壊は徹底的であり、夫は「家のなかをたてなおす」ためにその共犯者を演じさせられる。江藤は、『抱擁家族』に、伝統的な美意識である自然描写がないことを次のように論じている。
 
作者は描くべき自然を奪われ、人間に集中することを余儀なくされている。そのうしろめたさ、つまり伝統的な美意識を心ならずも裏切らざるを得ない作者の喪失感が行間に生きているために、人間だけから、より正確にいえば「化物」になって浮遊している人間だけから成立している『抱擁家族』の世界は、生々しいリアリティを感じさせるのである。

近代日本の社会が、「父」のイメイジを稀弱化し、敗戦がさらに支配原理そのものを否定した・・・(略)彼には「母」もなければ、「父」もない。ただ「家」だけがあり、その中を治める手がかりを俊介(夫)はどこにも見出せない。(江藤 128-129頁)

これらの江藤の論考を読んでいると、「父」と「母」だけではなく「家」さえ失い、「治める手がかりをどこにも見出せない」現代日本を予想するような鋭い指摘がある。しかし、疑問も多々わいてくる。なぜ何の説明もなく、「自然」=「母」という図式で論じられるのだろうか。この論理にも、文化(人工カルチャー)を自然(ネーチャー)よりも上位におく西欧的思考がみえる。そして、自ら(男)を文化と同一視して、自然のままである「女」よりも優位におくのである。
もう一つは、男(息子・夫)は、いつも被害者の位置にいることである。押しつけがましい愛情で自立を阻む「母」の息子としても、「娼婦」に変貌した妻(母)の共犯者にさせられる夫としても、犯罪者は女で、男は被害者なのである。共に問題を解決しようとする対等なパートーナーとしての女性像は論じられることはない。あい変わらず、「母」でなければ「娼婦」しかイメージできないとは、何と貧弱な女性像なのであろうか。 
それにしても江藤の「母」への蔑視と恨みは、エリクソンに劣らず相当なものである。江藤は、かつて共生していた「母」のあたたかくやわらかい胎内に戻ろうとする男性作家たちを切り捨てて、次のように断言する。
 
「母」の内奥に安息を求めようという衝動は決してどのような世界像をももたらすことがないであろう。それはいわば地底の世界、あるいは薄明の胎内に還ることであって、そこには秩序と行為をもたらす原理が欠けているから。(江藤 184頁)
 
江藤には、甘えるどころか、崩壊すべき「母」さえいなかった。「母」を切り捨てる文章には、「四歳で母を亡くした自身の歴史」が秘められているかもしれない。江藤が安岡の文体の「肉感性と柔軟性」を評して「氏があたうかぎりこの幼児的な世界の『自由』を味わいつくしたことに由来している」というとき、そのなかに母を早くに失った江藤自身の羨望の声を聞くこともできる(上野 1993)」。そして母への恨みには、「人はこの国(アメリカ)では孤独であることが許されている(江藤)」というアメリカへの一方的なあこがれが裏うちされ、悲哀とともににじみ出ているとしても、それにしても、である。
次のことばは、「日本の女性」だけに当てはまるのではない。「近代」を「アメリカ」に言い換えれば、江藤自身にも当てはまるのではないだろうか。
 
ある意味では女であることを嫌悪する感情は、あらゆる近代産業社会に生きる女性に普遍的な感情だともいえる。しかし、「近代」が・・・(略)もっぱらキラキラと光り輝くもの、獲得される幸福とだけ考えられているのは、おそらく日本の女性に特有の感情である。そしてこの「近代」に対する憧憬が、自己嫌悪の裏返された表現であるのも、おそらく日本独特の現象にちがいない。 (江藤 64頁)
 
■「ふがいない息子」と「不機嫌な娘」

上野(1993)は、「『成熟と喪失』から三十年」という解説で、江藤の著書を時代の自画像を映し出す作品と的確に位置づけた。そして、彼は「息子の物語」しか関心がないから、「娘の物語」も論じておこうという。上野が描写するのは、要約すると次のような物語である。
「支配する母」の背後には「恥ずかしい父」がいる。息子にとって、父は母に恥じられる「みじめな父」になり、母はその父に仕えるほか生きる道がないことで「いらだつ母」になる。息子はいずれ父になる運命を先取りして父を嫌悪しきれず、「みじめな父」に同一化することで、「ふがいない息子」になる。「いらだつ母」を救えない息子は、自責の念をもつとともに、「ふがいない息子」でありつづけることで母の支配圏から自立しないという隠れた期待に共犯的に応える。
娘は「みじめな父」に同一化する必要はないが、息子のようにみじめさから自力で抜け出す能力も機会も与えられない。自分を待ち受ける人生が、男にあなたまかせの舵を預けて「いらだつ母」のようになることだと観念するせいで、「不機嫌な娘」になる。娘は息子と違って「いらだつ母」に責任も同情もないから、この不機嫌はいっそう容赦がない。
「ふがいない息子」と「不機嫌な娘」が結婚すると、『抱擁家族』の夫婦になる。妻は結婚しても「不機嫌な娘」をやめず、自分の「幸福」の責任は相手にゆだねたまま、選択肢を変えるかもしれないという幻想を持ちつづけている。(上野 258~262頁 要約)
上野の鋭い分析は、なるほどと思わせる説得力がある。江藤に限らず「母」を描き、「母」を論じてきたのは、「息子」にしか関心のない息子の物語であった。そこには、「子ども」でありつづけることに決めた「大人」の世界しかなかった(江藤 14頁)。
しかし、「息子」の物語に「父」を引き受ける物語がなかったように、上野が描くのも、「娘」の物語だけで、「母」の物語はない。ここにも、「子ども」でありつづけることに決めた「大人」の世界しかない。
「不機嫌な娘」は、上野自身が言うように、責任も同情もなく、息子以上に容赦がない。江藤によって甘い子守歌とともに両義性をもって描かれた「母」は、「支配する母」という否定的な一言に要約された。そして、上野は「父」も「母」も威勢良く切り捨てている。

 
「ふがいない息子」たちは、もう「父」になろうとは思いもよらずに、「不機嫌な娘」たちに鼻面を引き回され、「不機嫌な娘」たちは不機嫌を隠しもせず日本の男たちをかんたんに捨てる。男にとっても女にとっても、「成熟」の課題など、どこかへ吹きとんでしまった七O年代以降のニッポン・・・・。(上野 280頁)
 
「母の崩壊」は、非可逆的な文明史の過程である。「父の回復」をおこなっても、「母の崩壊」が食い止められるわけではない。だれからもお呼びでない「父の回復」など、曳かれ者の小唄か、ひとりよがりの猿芝居にしかならない。それどころか、九O年代の息子たちは、もう「父」になろうとなど思いもせず、娘たちの方は、「受苦する母」などとっくのむかしに選択肢の中にない。 (上野282-283頁)
 
彼女は男のように「家」を離れ、男のように「出発」したいのである。それはとりもなおさず女である自分に対する自己嫌悪にほかならない。・・・つまり彼女にとって「母」であり、「女」であることは嫌悪の対象である。(江藤64頁 上野270頁)
 
「国破れて山河あり」と人々が謳っていたとき、彼等はまだ「自然」の存在を信じていられた、だが、産業化の過程で、日本人は自らの手で「自然」を破壊していく。女性のなかの「自然」もまた、例外ではない(上野 270頁)
近代産業社会のなかで「文化」に対して「自然」を割り振られた女は、自分の劣等性を受け入れるか、さもなければ自分の女性性を自己嫌悪するほかない。(上野271頁)
 
外にある「自然」が壊れるとき、女の内にある「自然」もまた壊れているからである。そしてもちろん、それを誘導し、推進した男のなかの「自然」はとっくの昔に壊れている。江藤の『成熟と喪失』がわたしにとって切実だったのは、女がこの過程のたんなる受け身の被害者ではなく、男とともにその過程に自発的に手を貸した共犯者だったからである。(上野282頁)
 
上野は、「母」にならない「不機嫌な娘」に喝采を送り、「母」に手厳しいが、それは自己嫌悪の裏返しかもしれない。なぜ子どもを育てることは、受苦でしかないのだろうか。彼女は、自然=「母」という既成の図式への批判もいくらか行っているが、その批判は徹底されていない。彼女もまた、「母の崩壊」に手を貸しながら、自然と文化を対立させる西欧の論理と、母の崩壊を自然破壊と同一視する江藤や他の男性作家の論理の上にいて、同じ論調から出ていないように見受けられる。
 
■子どもたちの子どもたちへ
さて、上野の論考からも30年近くたつ。変わり身ともの忘れが激しい日本人であるが、「成熟と喪失から60年」という息の長い時間軸をもつ論考が出てくるのが待たれるこのごろである。
現代では、「成熟」は課題にさえならず、責任ある大人になることは目標ではなくなった。「父」も「母」も「養育者(ケアギバー)」と呼ばれるようになり、「子育て」「少子化」「虐待」などという具体的で現実的な問題として語られるようになった。
自己嫌悪の対象であった「日本文化」は、高度成長を遂げて、もはや恥ずべきものではなくなったが、そのかわりに急速に崩壊した。グローバル化という名のアメリカ化の波にのって「日本文化」を問い返す熱意もなくなり、外と内の落差にも鈍感になった。子守歌は、当たり前のようにジャズやヒップホップになり、リビングには畳もふすまもなくなり、使い捨てのペットボトルでお茶を飲むようになった。アメリカを異文化として問う視線もうすくなり、自己の文化の伝統の衰退を憂う余裕もないほどに、カタカナ語が氾濫し、急速に「内からアメリカ化」した日常がある。
「家」は、丘の上どころか、タワーマンションになった。人工の技術を結集して建てた現代の家である。地震や津波、火山の噴火や台風に繰り返し襲われる日本である。「自然(ネーチャー)」と対立し克服する「文化(カルチャー)」ではなく、災害の多い自然(じねん)と共生してきたのが日本文化ではなかっただろうか。しかし、今では歴史と記憶と伝統の知恵を抹殺して、現代の家は建てられている。
現代のタワーマンションには、「父」も「母」も不在で、「ふがいない息子」と「不機嫌な娘」の子どもたちが住んでいる。いわば、子どもたちの子どもたちである。彼や彼女たちは、冷暖房の完備した家からの「出発」を欲することはなく、原子力発電所から送られてくる電気で暗闇を明るく変え、ネットで注文したファーストフードを食べながら、ヴァーチャルな映像を巨大スクリーンで見ている。
エリクソンは、『幼児期と社会』の献辞に、「こどもたちの子どもたちへ」と書いた。子どもたちの子どもたちへ、今なお響いてくる江藤のことばをコラージュし、新しいデザインで語り直して、君たちへの贈り物にしよう。
 
何しろ新しい彼等の家は丘の頂上にあるので、見晴らしもいいかわり、風当たりも相当なものであった。三百六十度そっくり見渡すことが出来るということは、東西南北、どっちの方角から風が吹いて来ても、まともに彼等の家に当たるわけで、隠れ場所というものがなかった。
前からこのあたりに住んでいる農家をみれば、どういう場所が人間が住むのにいいか、ひと目でわかる。丘のいちばん上にいるような家はどこを探してもない。(江藤 209-210頁)

ここには「記憶」が拒否されるように「自然」も「季節」もない。しかしまたこの人工的な世界には正確にいえば「人間」もいない。「父」と「母」という二つの根源的な原理を抹殺して、「人間」を超えるものの姿を見失ったとき、「人間」は皮肉なことに「人間」にとどまることができずに、抹消的な感覚に解体されざるを得ないからである。
(江藤 203頁)
 
「父」と「母」を抹殺し、「父」にも「母」にもならぬことを自己証明にしようとする涸渇した「子」というものが、いったいどんな生命力を回復できるだろうか。
(江藤 208頁) 
 
<引用文献> 
エリクソン, E. H. 1950/1980 Erikson, E.H. Childhood and society. W.W. Norton. 仁科弥生(訳)1980『幼児期と社会 2』みすず書房.
上野千鶴子1993「『成熟と喪失』から三十年」講談社 文芸文庫 256-283.
江藤淳1967/1993「成熟と喪失-“母”の崩壊」河出書房新社/講談社文芸文庫.
河合隼雄 1976『母性社会日本の病理』中央公論社.
ギリガン,C 1982/1986 GiIligan, C. In a Different Voice: Psychological Theory and Women’s Development” Harverd University Press.もうひとつの声 岩男寿美子(監訳)川島書店
川本三郎 1992 私が棄てた母親-「日本の悲劇」の望月優子 世界12月号
木下恵介 1953 映画『日本の悲劇』.
杉田俊介 2021「江藤淳論のためのノート――オトナコドモたちの成熟と喪失」https://note.com/sssugita/n/nd7f72d3602fb
西村紗知 2021「椎名林檎を論じて見えてきた現代の大衆と文化」「2021すばるクリティーク賞」受賞者、西村紗知さんインタビュー. https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/interview/sachi-nishimura/13905/3
鶴見俊輔 1967『限界芸術論』勁草書房.
フリードマン,L. J. 1999/2003 Friedman, L.J.  Identity“s architect:A biology of Erick H,Erikson) やまだようこ・西平直(監訳)2003『エリクソンの人生――アイデンティティの探求者』上下,新曜社.
やまだようこ1988『私をつつむ母なるもの――イメージ画にみる日本文化の心理』有斐閣.
山村賢明 1971/1978『日本人と母――文化としての母の観念についての研究』東洋館出版社.
 

 

生き人形と水槽の魚

 

 -大森健司句集『あるべきものが・・・』

を読んで                 やまだふゆめ  2021.8.15 

 

お借りしました先生の句集『あるべきものが・・・』を、さっそく拝見させていただきました。教えを受けるようになってから日も浅く、今まで先生の句歴もあまり存じあげませんでした。 

この句集は2007年に刊行された、先生の、22歳から31歳までの間の若いときの作品です。句集というのは、画家の個展のようなものですね。ひとつひとつの句を鑑賞するときとは違って、句集から作者の生身の人生が全体として伝わってくるような迫力があります。

句集を拝見して、感動というより「衝撃」を受けました。そのことばにできない衝撃の一端を何とかことばにしたいという欲求がつきあげてきておさまりません。

そこで、あまりにも個人的な偏った見方になるかもしれませんが、この評論を書くことにしました。俳句の世界の作法をはずれた、とても失礼な論評になるかもしれませんが、どうぞお許しください。

 

 

私が絶版になって手に入らない句集をぜひとも拝見したいと思ったのは、下記の句に出会ったからでした。これは、確かに衝撃的な句で、忘れることができません。 


 炎天や生き人形が家を出る 

 

 この句はなぜ衝撃的な魅力をもつのでしょう。「生き人形」ということばのもつインパクトとそこから生まれるイメージの連想によるのかもしれません。 

 人形は「ひとがた」です。ひとがたは、かつては水に流してケガレを払う呪いや祈りに使われました。女性の玩具としても使われたので、女性的で両性具有的な感性も感じさせます。「生き人形」は、折口信夫や寺山修司の世界と通じるものがあるようです。 


しかし、この句の生き人形は、寺山修司の世界のような「土着的なおどろおどろしさ」より、人形浄瑠璃や京人形のような「都の洗練」や「あでやかな美しさ」を連想させます。 

 生きものと生きていないもののあいだ、たましいを吹き込まれたときだけ存在するつかの間の「生き人形」、それは、この世とあの世の境界を行き来するような不思議な感覚を生み出します。かつては文楽の人形に、そして現代ではアンドロイドや初音ミクのようなヴァ-チャルな存在に感じる不思議な魅力だといえましょう。 


晩夏光ナイフとなりて家を出づ (角川春樹 『カエサルの地』) 

 

大森健司さんは、角川春樹さんの愛弟子にあたりますが、似た句と比較すると、資質の違いが明確になるように思われます。同じ家を出る行為を詠んでいますが、晩夏の光をあびてぎらぎらと輝く「ナイフ」、全身を闘いのための鋭いナイフにして研ぎ澄まして家を出る青年と、「生き人形」とは何という違いでしょう。「早くから大人たちの中で育ち子どもとして生きさせてもらえなかった」という生い立ちをもつ著者の気持ちが「生き人形」ということばにこめられているかもしれません。 


人形は一見すると意志や感情をもたない存在のようですが、その代わりに夏の空は炎天で、激しく燃えており、秘めた情熱を感じさせます。パッション(情熱)は、アクティヴに対してパッシヴ(受動的)という意味をもちます。「受難」「受苦」という意味もあり、「傷み」(ペイン)をともないます。そして、感受性(センシティヴィティ)ということばに、「受ける」という字が入っているように、センス、センシティヴという感覚は、「受け身」で感じる感覚です。ナイフで切って傷つける側の闘争的でアクティヴな行為よりも、自らは意志をもたず弄ばれる人形として受苦を引き受ける「受け身」の存在のほうが、感受性は鋭いかもしれません。 

 

さて、「家を出る」のは、自立の普遍的なテーマでもあります。イプセンの「人形の家」は、人形のように生きていた女性が自立する物語です。しかし、「生き人形」の句は、「炎天や生きて人形の家を出る」ではないことが重要です。家を出るのは「生き人形」なのです。この生き人形は、家を出て人間になるのでしょうか?いや、家を出ても生き人形のままで生きるのかもしれません。 

 たましいのない装飾的な存在としての「華」、見られるものとしての「金魚」、それは生き人形のもうひとつの生きる姿かもしれません。 

 

ダリア咲く窓を閉めても雨の音 

 

葉鶏頭窓一枚に昼があり 

 

曼珠沙華いくつの耳がありしかな 

 

金魚数匹暮れたる水に泳ぎたり 

 

熱帯魚真昼の水をこぼしけり 

 

ねむり得ず金魚の赤がひるがへる 

 

句集が衝撃的だったのは、「生き人形」のような特定の魅力的な句や、卓越した句法にもよります。そして、ここではあえて論じないのですが、「父」「母」など繰り返し現れる著者にとって切実なテーマにもあります。 

しかし、それだけではなく、句集全体が好きな句にみちあふれていたからです。そこから、たちあがってくる「感性」に、とても惹かれます。その「感性」が身体感覚を通して、日常的にみえる平明なことばを通して、そのまますっとまっすぐにひびいて伝わってきます。 

 

ひび割れる大地をのぞく天道虫(てんとむし) 

 

秋のひる誰もが通り過ぎてゆく 

 

虹消えて座るべき椅子見あたらず 

 

その「感性」については、ことばではうまく表現できませんし、誤解があったら申し訳ありませんが、「この世界に自分はほんとうには入っていない」というような感覚です。淋しいとか、孤独とか、不安とか、そういう感情とは違います。多くのひとと簡単には通じ合えない「ふるえるたましひ」みたいな身体です。 

何かすきとおったガラスの窓を通してこの世とかかわっているような感じ、正面からぶつかって赤い血を流すのではなく、ガラス越しに見えない繊細な傷がこまかくつく身を守っているみたいな感覚です。水槽のなかにいて、そこへ天空から降ってくる「透明な虹」、それがひとりだけにはっと見えて句になるみたいな感じでしょうか。 


水槽の魚しづかなり冬の虹

  

犬ふぐり空より落ちる風もなし 

 

新緑の月のひかりの重さかな 

 

飛魚に手つかずの空ありにけり 

  

正面から闘いを挑んで血を流すのではなく、闘う相手さえいない、ある種の「欠落」「不在」「空洞」の感覚をかかえるのは、生い立ちや環境と関連するだけではないでしょう。それは、村上春樹さんの小説などにも繰り返し現れるテーマです。それは、現代の芸術家の感性として普遍的なものと通じるのではないかと思いますし、よりおおきなものと対峙して研ぎ澄ましてひらいていける鋭敏な感性ではないかと思います。 


「水のなかの子」というイメージでは、以前に私の著書『私をつつむ母なるもの』のなかで、大江健三郎さんの文章を引用して論じたことがあったのを思い出しました。 

大江さんの小説では、鳥(バード)や鷹と名づけられた雄々しく空へ飛翔するものへのあこがれが繰り返し描かれてきました。そして谷間の水たまりは意志のない「死者が浮かぶ汚水」でした。しかし、『新しい人よ眼ざめよ』では、「澄んだ水のなかの子」のイメージに変わりました。 

 

水を嫌って飛び立つ「鳥(バード)」、鋭い眼をもつ「鷹」から、・・・思い切って洪水のなかで「魚」に変身したときに、水には別の価値もあるのではという予感ができはじめた。 

だがまだ、「勇魚(いさな)」でなければならなかった。勇魚は鯨の別名であり、魚ではない。たとえ魚のように水のなかで生きるにしても、「愚かしい魚類」ではなく、身構えて闘う巨きい勇ましい魚でなければならなかった。 

それが今では水のなかで自然(じねん)に息をする「卵」のかたちの眼になったのである。「水のなかの入れ子」は水に身をゆだねる穏やかな魚のようにやすらかで、少しも水の抵抗を受けるようではないが、しかし、はっきりと眼ざめている。 

(やまだようこ『私をつつむ母なるもの』) 

 

水のなかの息子は切れの深い卵型の眼を大きく見開いて、静かな感嘆をあらわし、鼻や口許からひとつずつ立ちのぼるのが見えるほど、穏やかに穏やかに身動きしている。それはもしかしたらこのような態度こそが。水のなかで人間のとるべき自然なかたちではないかと反省されたりもするほどあった。 (大江健三郎『新しい人よ眼ざめよ』) 


「水のなかの子」にもどることの必要性は。現代という時代においては、かなり普遍的なことのように思われます。「父」が不在で「父」の遺産を失ったわたしたちは、ユングがいうように「精神(ガイスト)がもはや上ではなく下にあり、もはや火ではなく水である時代の子」だからです。そこでユングは、漁師になって水底に降りて魚を捕りに行くのだと言います。 

 

水底には宝があることを知り、それを引き上げようとするであろう。彼らは自分が誰かを絶対に忘れてはならないのであるから、自分の意識を金輪際失ってはならない。---それによって彼らはいわば漁師になる。つまり水の中を泳いでいるものを釣針と網でつかまえるものとなる。 (ユング『元型論』) 

 

このユングのことばは、角川春樹さんの次のような句とひびきあうものです。 

 

勇魚(いさな)捕る碧き氷河に神がゐて (角川春樹 『カエサルの地』) 

 

 「水のなかの子」のイメージは、漁師になって大魚を捕るイメージとは違います。水のなかに住みつづけて、水のなかで眼ざめて感性を研ぎ澄まし、そこにはっと降りてくる光のきらめき、光の網目がつくりだすゆらめく文様、奇跡のように美しい虹の光を見るのだからです。 

 

自分はもうこのまま、谷間の川の中心の、どこから見ても卵のような、まんなかの空洞に入りこんで、エラ呼吸しながら生きつづけるのだと、そのように感じて・・・・ 

 事実、僕はいかにも永く水の底にとどまっていたような気がする。現にいまも自分はそこにとどまりつづけているのであり、これまでの僕の生はすべて、ウグイの群がわずかに位置を交換しつつ間断なくつくりだす文様を読みとった内容にすぎなかったのだと、そのような気もするほどだ。 (大江健三郎『新しい人よ眼ざめよ』) 

 

 私は、この「水のなかの子」のイメージに、折口信夫の「みあれ」についての考察をむすびつけてみたいという誘惑にかられています。 


京都の賀茂社では、新緑のころ「みかげまつり(御蔭祭り)」という古い再生の祭りが行われます。この祭りは、さらに古くは「みあれまつり」と呼ばれていました。「みあれ」は、「ある」からきていますが、それは存在するというより「あらわれる」という意味です。 

折口によれば、神あるいは貴人には、「誕生」ということはありません。なぜなら何時も生きており、また何時も若いからです。ただ時々に休みがあり、また休みから起き上がってくるのです。貴人について「みあれ」というのも、生まれるというより、あらはれる・出現・甦生・復活に近い意味です。そして、水は、「あらわれる」ときに媒介となるものです。 


日本の古い御産の形式には、水と火との二つの方式がありますが、水に関したものでは、産婆・乳母である「みぶ」に選ばれた女子が水に潜って、若皇子をとりあげる儀式もありました。今でも赤ん坊が生まれると「産湯」に入れますが、「湯」は暖かい水という意味ではなく、古代では、水を「湯」とも称しており、産湯は「ゆかはあみ(湯川浴)」のことです。 


産湯の「ゆかはみづ」により、ケガレを払う「みそぎ(禊ぎ)」がなされます。その水は単なる「みそぎ」ではなく、「若水」でもあります。若水は、「とこよ(常世)」からやってくるもので、特定の井戸に湧きます。その井戸の水を用いて沐浴すると、新しい活力をえて生まれ変わり、「新しい人」になって眼ざめるのです。 

 
 水槽の魚しづかなり冬の虹 

 

 飛魚に手つかずの空ありにけり (大森健司『あるべきものが・・・』) 

 

引用文献 

大江健三郎 1983『新しい人よ眼ざめよ』新潮社 

大森健司 2007『あるべきものが・・・』日本一行詩協会 

折口信夫 1975「貴種誕生と産湯の信仰と」折口信夫全集 第二巻 中央公論社138-144 

角川春樹 1981 『カエサルの地』牧羊社 

やまだようこ 1988『私をつつむ母なるもの-イメージ画にみる日本文化の心理』有斐閣 

ユング C.G. 1999  (林道生雄 訳)『元型論』紀伊國屋書店